あやかし秘抄 第一話(2)


「夫が、毎晩、夜中になると女の名を呼ぶんです」
 手の中のハンカチをしぼるようにして、依頼者の北浜ヒロコは訴えた。
 東京の『久下心霊調査事務所』の応接用のソファ。
 詩乃はメモを取る手を、思わず止めた。
「ご主人は、寝ておられるんですよね」
「ええ、そうです」
「では、寝言ということですか」
「はい。でも、そうとは思えないくらい、はっきりとした声で」
「女性の名前に、心当たりは?」
「知っています。昔付き合っていた『ミカ』という人。夫の勤めている会社の同僚で、私との結婚より一年ほど前にケンカ別れして、相手はそのとき会社も辞めて、それきりだと言っていたのに」
 ヒロコは、悔しそうにギリリと歯をきしませた。
「それで、ご主人には、そのことを」
「ええ、問い詰めましたとも。俺は知らない、ミカの名前なんて呼ぶはずはない、あれから一度も会っていないと言って、譲らないんです」
 北浜ヒロコの握りしめた拳が、ぶるぶると震えた。
「それが真実だとしても、夢って自分の本心が出るというでしょう。だとしたら、三年前に別れた恋人が、今でもそんなに恋しいということじゃないですか」
「お気持は、お察しします」
 詩乃はすすり泣く依頼者を落ち着かせるために、お茶のおかわりを注いだ。
「お願いします。どうか、主人が二度とそんな夢を見ないようにして」
 この心霊調査事務所の噂をどこで聞きつけたのか、北浜ヒロコは霊能者の力で何とかしてほしいと、頼みにきたのだ。
(確かに)
 毎晩、夢に女性が出てくるとしたら、少し異常だ。どんなに恋しい相手でも、そう都合よく出てくるものではない。
 ことによると、人の夢を食らうという夜叉のしわざかもしれない。


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