あやかし秘抄 第三話(2)


 今から180年ほど前。将軍徳川家斉の時代。
「た、助けて……死にたくない」
 髪を振り乱し、包丁をかざす女に追い詰められ、桔梗(ききょう)は部屋の隅で震えていた。
 向こうには、六尺ひとつの男の死体がころがっている。
 新吉原の江戸町一丁目、『火焔玉屋』。彼女は、この妓楼(ぎろう)の遊女だ。
「この、アマッ」
 悪鬼のごとき形相で、刃物を振り回しているのは、同格の遊女、『松風』。ふたりは、ひとりのなじみ客を取り合って争った挙句、狂乱した松風が客の男を殺して、今また桔梗を亡き者にしようとしているのだ。
「ひいいっ」
 まさに襲いかかろうとした瞬間、行灯(あんどん)が倒れ、めらめらと火が燃え上がった。
「ぎゃああっ」
 その火が松風の着物に燃え移り、世にも恐ろしい悲鳴が響いた。
 気を失いかけたとき、さっと襖が開いて、ひとりの蓬髪(ほうはつ)の男が駆け込んできた。
「飛ぶぞ」
 男は彼女を小脇にかかえると、欄干を乗り越え、二階から身をおどらせた。
 「火事だ」と叫ぶ人々の声が、はるか後方へと、ぐんぐん遠ざかる。
 木の根元に横たえられたと思ったのも束の間、男は桔梗の着ていたものをむりやり剥いで、ふたたび走り出した。金糸の縫い取りのある帯や着物を、どこかで金に換えるのだろうと思った。そのあとは、何をされるのだろうか。
 襦袢一枚で、恐怖のあまり、動くことも逃げ出すこともできない。
 木々や寺に囲まれた、人気のないこの場所が、どこかもわからなかった。


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