インビジブル・ラブ(239)

「えっ」
 愛海は息を飲んだ。もちろん、俺もだ。
「あの子のことで、話したいことがあるんです」
 よく見れば、石橋のおっさんじゃねえか。俺が在学していたとき、この人はすでに校務員だった。勤続二十年にはなるはずだ。
 由香利は気を利かせて、「外で待ってるね」と行ってしまった。
「水主は、親父さんの葬式以来ずっと学校を休んでいました」
 校務員のおっさんは桜の木を見上げ、一語ずつ切りながら、ゆっくりと話し始めた。
「家もいつのまにか引っ越してしまい連絡が取れずに、同級生たちは奴のことを、とても心配してくれとったです。校庭や廊下で集まっては、奴を気づかっていました。もし水主が学校に顔を見せたら、夜中でも日曜でもすぐに連絡をくれるように、わしはくれぐれも生徒たちから頼まれておりました」
 石橋のおっさんは、ぐしゅっと手の甲で鼻をこすった。
「最後に奴が退学手続きに来た日、わしはすぐに子どもたちに電話しました。家の近い子が数人、駆けつけてきて、校庭で水主と出くわしました。だが奴はひとことも言わずに、逃げるように走り去っていきおった」
「……」
「あの時はきっと、親しい友だちがみんな敵に見えたんでしょう。それきり、水主とは一度も会えませんでした」
 シワだらけの頬にきらりと光るものがあった。
「奴がもし生きていたら、わしは伝えてやりたかったです。みんな、おまえのことを心配していたんだぞと」
 校務員はぺこりと頭を下げて、去っていった。
 その老いた背中を見つめながら、俺は昨日のことのように、あの頃を思い出していた。
 部活が終わったあとの夕焼け。焼けた砂埃の匂い。歓声を上げながら仲間たちと競い合うように水道の蛇口に走ったこと。
「俺は……ばかだ」
「淳平……」
「なんであのとき、逃げ出さずにひとことでも……俺は、大ばかだ!」
 幽霊になって初めて、俺は声をあげて泣いた。



     第六章 終



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