インビジブル・ラブ(337)

第九章

 暖かいぬかるみの中から、ようやく俺は浮き上がった。
 なつかしい感覚だ。死んでから最初の一年間、俺はこの中で眠り続けていたのだから。
 意識が定まり始める。俺は《はざまの世界》に全裸で仰向けに寝ていた。ハダカと言っても、別に恥ずかしい部品がついてるわけじゃない。寒さも感じない。俺の体は霊が形を取ったもの。いつも着ている洋服は、生前に一番なじんでいたものを、俺が無意識に選んだだけだった。
 太公望のおっさんが、しげしげと俺をのぞきこんでいる。
「目覚めて最初に見た顔が、こんな爺さんじゃ、起きる気もしねえな」
「それだけの憎まれ口がきけるのなら、もう心配はいらんな」
 ゆっくりと起き上がって、あたりを見回す。いつもどおり見えるものは何もなく、ゆらゆらと光が揺れているだけの世界だ。
「俺はどうしちまったんだ」
「殺されたときのことを思い出したのじゃ。そのショックで一時的に霊力が暴走し、消耗したすえに霊体がバラバラになってしもうた」
「そうだった……」
 路地裏に立ったとき、どっと苦痛が押し寄せてきたのだ。まるで、あの瞬間に戻ったように。
 背中にナイフが差し込まれ、心臓が鼓動を止めて、血圧が急激に下がり、脳が活動を停止したあの瞬間。
 生きようとする意志そのものが、《生命》そのものが、奪われたあの瞬間。
 人語では語ることのできない恐怖に、今でも俺の体はわなないている。あの苦痛を思い浮かべないように必死で頭から追いやりながら、それでも、絶対に追いやれない事実が残った。
「全部、思い出したよ」
 俺は苦々しく言った。
「俺を殺したのは、南原署の赤塚と木下のふたりだ」



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