手をのばして(10)

 だが、ときおり燃え上がる心にすっとすきま風が吹くときがあった。
 彼とのあいだに横たわる60年の年月を、考えないようにしても否応なしに気づかされてしまう。
 たとえば、私たちには共通することばが欠けていた。同じ日本語のはずなのに少しずつ意味がずれて、わかり合えない。ふたりのあいだに時代の思想という厳然たる隔たりを感じて、気まずく押し黙ることもあった。
 彼に魅かれれば魅かれるほど、これは恋ではありえないと引き戻す心が働くようになった。彼は過去の人なのだ。眼の前にいて息遣いまで聞こえるのに、この世の誰より遠い人。
 私は次第に不安な気持ちに襲われ始めた。彼も同じだったと思う。
 普通の恋人同士なら触れ合って確かめられることが、私たちには確かめられない。
「いっしょに映画を見よう」
「ごはん食べに行こう」
 そんなあたりまえのことが私たちにはできない。共有する夢も将来への希望も、私たちにはない。
 想い合う気持ちを意識したとき、ふたりのあいだに沈黙の帳が下りることが多くなった。
 そんなとき、ただ見つめ合う互いの目が言う。
『触れたい。一度でいい、あなたに触れたい』

 私は自分の衝動を抑えられず、ある日とうとう言ってしまった。
「少しだけそっちへ行ってみたい。新聞だってほかのものだって通り抜けられた。これだけ大きな鏡なら、人のからだも楽々通れるよ」

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