手をのばして(11)

 彼は驚いて顔をしかめ、首を振った。
「命のあるものを実験したことはない。どんな副作用があるかわからない。だめだ」
「だいじょうぶ。長いあいだではないから」
 私は彼が止めるのもきかず、鏡に向かって腕をぐっと突き出した。
 眩暈。からだがふわりと浮く。
 ぐるぐると回り出す視界。吐き気。ちりりと痺れるような感覚。
 気が遠くなりかけた。
「たえさん!」
 栄一さんの声に、私は我に返った。気がつくと観花堂の店の床にへたり込んでいた。
「だいじょうぶか、たえさん」
「うん……だいじょうぶ」
「きみの腕が鏡からぬっと現われた。でもいつまでたってもそのままだから、あわてて押し戻したんだ」
「一瞬気を失ってたみたい。もう一回やってみる」
「無理だ」
 彼はことばを吐き出した。
「きみは僕の世界には存在するはずのない人だ。きみがこちらに来れば、その場所を占めていた空気が行き場をなくす。連鎖反応で世界の均衡が崩れてしまうかもしれない」
「そんな……」
「もう、やめたほうがいい。僕たちは……」
 彼の声はうつろに響いた。「決して結ばれることはできないんだ」
 栄一さんは鏡の面に右手の指を押し当てた。彼の指先がほんの少し時の扉を越えて、私のところに届く。私もおずおずと左手を伸ばし、そっとその指先に触れた。男の人の指の少し硬い感触。わずかなぬくもり。
 60年の時を越える罰として与えられる、痺れに似た激しい痛みを覚えながら、狂おしく指をからます。
 私たちの頬はいつのまにか、涙で濡れていた。

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