手をのばして(13)

 栄一さんは抑揚のない調子で続けた。
「夕焼けのように真っ赤に燃える空だった。爆撃を受けて燃え盛る砲艦だった。機銃掃射を避けようと、僕たちはすぐそばの便所に飛び込もうとした。だが一瞬早く、便所は爆弾の直撃を受けた。がれきの中に、血まみれのイタリア人技師のからだが埋もれていた。僕たちももう一歩早く中に入っていたら、同じ運命をたどるところだった」
「……」
「あとで知ったけど、僕たちが入る予定だった防空壕も爆撃を受けて、何人も同級生が死んだ……。こうして生きているのが不思議なくらいだ」
「よかった……、栄一さんが無事でよかった」
「何がいいものか!」
 彼は腹のそこから搾り出すような大声で叫んだ。
「僕たちがここで学んできたことは何の役にも立ちはしない! 哲学も経済学も歴史学も! この戦争という現実の前にはすべての理想が吹き飛ばされてしまう」
「栄一さん……」
「何が大東亜共栄圏だ、何が日中の架け橋だ! 僕たちが教えられてきたことはすべて、机上の空論なんだ!」
 彼は頭を抱えてすすり泣いた。「僕は、何もできない。……学問は、無力だ」

 次の日が別れの日になった。
 ひとめ見たとき、私はすぐに悟った。
 彼は今までの栄一さんではなかった。きれいな黒髪を刈り落として坊主頭にし、軍服を着ていた。
「今日は会えるような気がしていた」
 彼は穏やかな表情で言った。
「最後にお別れを言いたかった。明日、僕は入隊することになったんだ」
「召集令状が来たの……?」
「そうだ。日本のために戦ってくる。たぶんもう生きてここへは戻ってこないだろう」
 そのひとことが私の理性を奪い去った。

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