手をのばして(14)

「そんな……! 日本はいずれ戦争に負けてしまうんだよ」
「わかっている」
「それなのに、軍隊に入るの? あなただってこの戦争は馬鹿げているって言ってたでしょう。日本人は中国でひどいことをしてきたのよ」
 彼は何も答えなかった。
「大勢の人を殺して、自分たちも死んでしまう。何にもならないのに。何も産みださないのに!」
「後世の者に、指図されたくはない」
 静かな、しかし強い怒りをこめたひとこと。
「僕たちの生き方は間違っている。……そうかもしれない。それは歴史の決めることだ。でも僕は、自分の正しいと決めた道を選ぶ。きみたち日本の未来を背負う人たちのことを、僕たちが何も考えなかったと思うのか!」
「栄一さん……」
「さようなら、たえさん」
 彼は険しいまなざしをふっと緩めて、優しく笑った。
「最後に握手してほしい。もう二度と会えないと思うから」
 鏡面が水の波紋のごとくにゆらゆらと揺れ、混乱のため何もわからなくなったまま差し出した私の手を、痛みを気づかって彼は軽く握っただけだった。
「たえさん、きみと会えてよかった」
「栄一さん!」
 私は絶叫して、彼の手を力の限りに自分のほうに引っぱった。
「こっちへ来て! 逃げてきて、ここで私といっしょに暮らそう! 世界のバランスが崩れたっていい。死ぬなんて……あなたが死ぬなんて、いや!」
 しかし、彼は私の手をふりほどいた。
 もう一度微笑もうとしたけれど、彼の顔は悲しみにひきつって、目にいっぱいの涙がたまっていた。
「ありがとう。でも、僕の生きる時代はここだ。逃げることはできない」
「栄……いち……さ」
「僕は、きみのことを忘れない。……忘れない、たえさん」
「栄一さん! 栄一さん! 栄一さん!」
 私は鏡にとりすがって、鏡面を叩いて、大声で叫んだ。
 鏡は暗く、硬く、元通りに観花堂の店内を映すばかりだった。
 過去への扉が閉ざされてしまったことを知り、崩れ落ちて、床を叩きながら激しく泣いた。
 もう永久に会えないのだ。
 わずか一ヶ月の、毎日数時間だけの逢瀬。触れ合ったのは手だけだった。

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