手をのばして(番外編5)

「栄一さん、なぜ来てくれないの。そこはどこなの……」
 たえの口から力ない吐息が漏れたのと同時に、俺は彼女の肩越しに鏡の中をのぞきこんだ。
 それは、見知った光景だった。祖父の書斎。それも、大工に手を入れてもらう前の古い書斎だ。本当に、この鏡は過去を映し出すのだ。
「これは俺の家だ」
 目を疑うような奇跡に圧倒されながらつぶやく俺に、たえは振り向いた。
「今から10年以上前の、静岡の家だ」
「そう……なの」
「祖父は、この時にはもう結婚していた。子どももふたり生まれた。孫も」
 失意に肩を落とすたえを見て、俺はなおも怒りに囚われ、容赦なく、とどめのことばを吐き出した。
「祖父は、言ってた。上海で徴兵される前の日にあんたに別れを告げて以来、二度と鏡の中に未来を見ることはなかったと」
 祖父のことばが本当なら、たえはもう二度と祖父に会うことはない。もしそんなことにでもなれば、時間はねじまげられ、歴史が変わってしまう。
 彼女はこっくりとうなずいて、床に静かに崩れこんだ。
 こみあげる嗚咽を必死でこらえている彼女を見下ろしながら、俺は絶望的な敗北感にうちのめされていた。
 俺では、たえの心を切り刻むことはできても、たえの涙を止めることはできない。
 たとえ、どんなにそっくりな顔をしていても、俺は永久に、彼女の求める校倉栄一にはなれないのだ。
 息苦しさと、キリキリと痛むみぞおちに、ようやく俺は、遅すぎたひとつの真実を悟った。
 祖母のために怒っていたのではなかった。祖父の名誉を守ろうとしていたのでもなかった。
 いつのまにか、俺自身がたえを愛してしまったのだ。
 ふと、視界の端に動くものを見つけた。
 誰かが鏡の中の世界で、ドアを開けて書斎に入ってきたのだ。
 息を呑んで見つめていると、そいつは下の方からゆっくりと、よじ登るようにして俺の視界に入ってきた。
 4、5歳くらいの、利かん気そうな男の子。それはまぎれもなく、俺だった。
 雷に打たれたように、すべての記憶がよみがえる。
 幼稚園から帰った俺は、祖父の不在を知って、書斎にこっそりと入りこんだのだ。いつものように椅子の上に乗って、壁にかけられた鏡を覗いた。
 そこに映ったのは、いつもの見慣れた書斎の風景ではなかった。その向こうにあったのは……。
「あ」
 子どもの俺は、甲高い声で叫ぶとまっすぐに手のひらを差し出した。鏡面が激しく揺れ、小さな手だけが、にゅうっとこちらに飛び出てきた。

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