手をのばして(3)

 鏡の向こうは別の空間と言われる。
 彼は向こう側の世界から反対に、鏡の中に映るはずのない私の姿を見ているのだろうか。
 私はまだ少し怖かったが、一歩だけ鏡に近づいて男を見た。
 私と同じ高校生か大学生くらい。後ろになでつけそこねた黒髪が数房、はらりと額にかかっている。日に焼けていない神経質そうな顔。きれいにアイロンをかけた白いシャツ。楕円形の鏡には上半身しか映っていない。
「僕は校倉(あぜくら)栄一という」
「私は、春日野たえ。ここは祖父の骨董屋」
「骨董屋?」
「京都三条の「観花堂」っていうの」
「京都?」
 彼は視線を泳がせ、一層、眉間の皺を深くして考え込んでいる様子だった。
「……あなたは?」
「ここは、僕の下宿している部屋だ。この春から同文書院に通うために、近くの中国人夫婦の住む家の2階に間借りしている」
「……場所は?」
「……上海」
「上海?」

「上海がどないしたって?」
 いつのまにか店の入り口で、祖父が借りてきたらしい傘を傘立てがわりの萩焼の壷に差しているところだった。
「あ……」
 私は祖父に向かって口をぱくぱく開けて、ふたたび鏡を振り返った。
 もうそこには、骨董に囲まれてぽかんと立っている私以外、何も映ってはいなかった。
「お、おじいちゃん、この……鏡!」
「ん? その鏡がどないした」
 私は勢い込んで、祖父に今見たことをすべて説明しようとしたが、すぐに考えを変えた。
 もしかすると、夢かもしれない。私は単調な夕立の音に眠気がさして、まどろんでいただけなのかも。
 確かめる方法がひとつあった。
「おじいちゃん、上海に同文書院っていう学校があるかどうか知ってる?」
「あるで。東亜同文書院大学」
 私は身を固くした。もしそんな学校が実在するのなら、今のは夢なんかじゃないことになる。
 しかし、祖父の次のことばが、さらに私を凍りつかせた。
「でも、それは日本が中国を侵略していた頃の話。戦前のことやで」

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