手をのばして(7)

 その日から私は、何のかのと理由をつけて祖父を店から追い出した。
「いったい、どないしたんや」
「ひとりでしんみりとしっとりと、本を読みたいだけや」
 祖父はいぶかしげに聞いてきたが、私は本当の理由を言わない。
 この奇妙なデートをふたりだけの秘密にしておきたかったのだ。もし真相を知られれば、祖父は鏡の構造や由来を調べようとするだろう。そうすれば鏡は過去を映す力を永久に失ってしまうかもしれない。
 確かに栄一さんは、私がひとりで鏡の前に立つときを選んでしか現われなかった。
 私にとってはそれは毎日のことだったのだけれど、彼にとってはそうではなかったようだ。
 私が彼の下宿の部屋の鏡に映し出されるのは、短くて一週間、長ければ一月も二月も間隔を置いてから、であるらしい。
 そのたびに彼の服装や部屋の様子は変わっていて、季節のうつりかわりを感じさせた。
 彼の実家は裕福な貿易商だった。上海の大学を選んだのも、将来彼に会社を継がせたいと願う父親の意向だという。
 東亜同文書院大学は、当時上海にあった日本の名門大学で、全国の都道府県から選ばれた公費留学生と私費生が日中両語で政治や経済を学んでいた。
 栄一さんは私費留学生だった。いつも仕立てのよい服を着て、部屋の調度もゆきとどいて、とても戦時中とは思えなかった。
 読書家らしく、部屋の隅の二つの石炭箱にいっぱいに、哲学や文学の書物がぎっしり詰まっているのも見えた。
 映画を観るのも好きで、よく私の知らないヨーロッパ映画の話をした。マレーネ・ディートリッヒというドイツのきれいな女優さんの白黒のブロマイドを写真立に飾っていて、恥ずかしそうに鏡の前で見せてくれた。

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