手をのばして(8)

 彼は、誠実な人柄だった。現代ではもうどこでも聞けないような、折り目正しいことばづかい。
 神経質そうに眉をひそめる癖も、私と気持ちが通じ合うにつれて消えて行った。
 軍国主義の教育を受けた人はもっとコチコチに洗脳された石頭かと思っていたが、彼はそうではなかった。平気で時の政府の批判もした。
 あとで考えると、それは外国にいるからできることだったのかもしれないが。
 日本が戦争に負けるという未来を、彼は冷静に受け止めていた。
「しかたがないと思う。外地に来て初めて、日本の小ささと世界の大きさがわかった。日本はバカだ。身の丈に合わない無謀な戦争を始めてしまったんだ」
 口から出ることばとは裏腹に、さびしそうな目をしてつぶやいた。
 私はだから、広島や長崎に落とされたあのむごい原爆のことを彼に話すことができなかった。これから自分の国に訪れる避けられない運命を知ってしまったら、人はどんな思いで生きるのだろう。私は彼を悲しませたくなかった。
「京都はそんなに空襲に会わなかったの。アメリカは、京都や奈良の文化遺産は破壊しなかったみたい」
 本当は京都は原爆投下の候補地にさえなっていたらしいのだが、私はそのことも黙っていた。
「そうか。それは良かった。たえさんの家も家族も無事だったんだね」
 睫毛の長いきれいな目を細めて、心からうれしそうに笑う。
 私はその笑顔が見たくて、彼との時間を何よりも大切なものとして心待ちにするようになった。
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