「美玖……。美玖」
鼓膜を心地よく震わす彼の低い声。
やさしく見つめる、深い海の底の色に似た彼の瞳。
それさえあれば、何もいらなかった。
美玖(みく)が彼と出会ったのは、短大の友たちに無理やり引っぱっていかれたライブハウス。
そこで怜(れい)は歌っていた。
不思議な声だった。魂の底からしぼりだすような、それでいて遠い昔を思い出させるようななつかしい声。彼女はたった一曲を聞いただけで彼のとりこになり、それからというもの毎晩通いつめた。
怜のほうも、最前列でいつも熱っぽい瞳で彼を見ている長い髪の少女に、いつのまにか魅かれていた。
ふたりはまたたく間に恋に落ちた。
怜は仲間たちと、「ブルーカオス」というバンドを組み、インディーズで活動していた。
ベースギターを買うために深夜までバイトし、明け方になるとやってくる彼のために、美玖はいつも熱いコーヒーを沸かして待っていた。
原宿でストリートライブをするときは、両腕に抱えきれないほどのおにぎりと、はちみつ漬けのスライスレモンを持って応援に行った。
メジャーレーベルでのCDの発売が決定したときは、湘南まで何台もバイクを連ねて、みんなで海に向かって吼えた。
怜は美玖を抱くとき、ずっと彼女の名前を呼び続けた。
彼女の頬に口づけしながら、やわらかい髪を愛撫しながら、彼はその甘く低い声で、何かに飢えた子どものまなざしで、美玖を恍惚の高みに押し上げた。
「美玖……。美玖……」
次へ TOP