あなたが見えない(5)


「はじめまして、精神科部長の霧島です。あなたは?」
「日下部怜。……美玖の恋人です」
「ああ。あなたが」
「美玖は、いったい何の病気なんですか。さっきから話しかけているのに、全然聞こえていない。俺のことを見えてもいない」
「美玖さんのは、特殊な病です。ある特定のものだけが、彼女の網膜には像を結ばない。若い20歳前後の男性の像です。
それに、ある周波数の音だけを、彼女は聞くことができない。だいたい基部が100から200ヘルツ、倍音の多い豊かな声。ちょうどあなたのようなすこし低い男性の声です」
「そ、そんな……」
「視覚、聴覚にはなんの異常も見られない。心の病から来ている症状です。
彼女は渋谷のスクランブル交差点の前の大スクリーンを見て、大声をあげて倒れて、ここに運ばれた。スクリーンには「ブルーカオス」という有名なロックバンドのコンサートの映像が大写しになっていた」
 医師は、黒ぶちの眼鏡の奥からじっと怜を見つめた。
「今わかりました。……あなただったのですね。
彼女は、愛しながら決して会うことのできないあなたという存在を感じなくなるために、あなたにつながる全ての情報を無意識に排除しているのでしょう」
「……美玖」
「残念ながら、この病気の治療法は見つかっていません。このままなら彼女は一生、あなたを見ることも、あなたの声を聞くこともできないでしょう」
 怜はぶるぶると震えながら、彼女の前にひざまずいて、そっとその体を抱きしめた。
「ごめん……。赦してくれ。美玖……。美玖!」
「ねえ、霧島先生」
 美玖はつぶらな瞳を見開きながら、かたわらに立つ医師に問いかけた。
「おかしいの。風もないのに、何かがわたしの頬や髪の毛をなでていくの。こんなにいいお天気なのに、熱い雨がわたしの手をぬらすの。
でも、なんだかとてもなつかしい、あったかい気持ちになる。
なぜなんだろうね……」


   (終)
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