あなたの歌が聞こえる(2)


『心の病から来ている症状です。ある特定のものだけが、彼女の網膜には像を結ばない。ある周波数の音だけを、彼女は聞くことができない。
彼女は、愛しながら決して会うことのできないあなたという存在を感じなくなるために、あなたにつながる全ての情報を無意識に排除しているのでしょう。
このままなら彼女は一生、あなたを見ることも、あなたの声を聞くこともできないでしょう』

「もう三ヶ月になります、美玖がここに入院してから」
 美玖の主治医・霧島の診察室に座ると、怜は両手でぐっと自分の膝を鷲づかみにした。
「良くなる兆しが全然ない。いったい彼女の正式な病名は何なんですか?」
「恋人であるあなたに関する一切の記憶がないことから、心因性の逆行性健忘症の一種だと考えられます。だが」
 すべての希望をこめた彼の視線を、医師の黒縁の眼鏡の無慈悲な反射が拒絶している。
「特定の人間の声や姿を知覚することができないという症状は、わたしも今まで見たことがない。世界にも報告された症例はないのです」
「治らない……のですか」
「考えうるかぎりのあらゆる療法をこころみてはいますが……今のところは効果をあげていません」
「いっそ退院させて元の生活に戻れば、何か思い出すということはないのですか」
「今でもときおり、何かをしている途中にぼんやりしてしまうことがよくあります。自分がどこにいるかわからないことも。そういった意識の混濁や、ときおり前触れなしに訪れる不安感。
それらが軽くならないと、日常生活に戻るのは難しいでしょう」
「そうですか……」
 怜はうなだれた。
 やはり。
 やはり美玖は、このまま彼を見ることも、彼の声を聞くこともできないのか。
 影のように、たとえどんなにそばについていても。

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