待宵草(3)

「……わかりました。予定は変更しておきます」
「頼む」
 彼は短く言うと、ピアニストのような長い指先を閉じた瞼の上に当てて、ゆっくり揉みはじめた。
「その後の日取りが決まり次第、お教えください。それに、婚約指輪もすぐに必要になりますね」
「ああ。指輪はきみにまかせる。適当なものを選んでおいてくれ」
「承知しました」
 古関かおりは、ノートを閉じると退出のお辞儀をした。
 しかし、城西がふたたび目を開けたとき、彼女はなお同じ場所に立っていた。
「……どうした」
「お願いがあります」
「何だ」
「辞めさせてください」
「会社をか?」
 城西は、片眉をあげた。
「そうです」
「ずいぶん、急だな」
「もちろん、社長のご結婚までは、できることはさせていただきます。でも、その後は、湯川さんに引き継いでもらいたいと思います」
「理由は?」
「広島の郷里の母の具合が良くありません。ずっと帰ってくるように言われていました。……それに、もう私の役目は終わったと思います」
「役目?」
「正確に申し上げると、たった今終わったと思いました。社長が、さきほど花をご覧になって、きれいだとおっしゃられた、そのときに」
「それは、どういう意味だ」
 城西は、かすかに色をなして問うた。
「私は5年間、社長の秘書をさせていただきました。この5年間で、社長が私の生けた花をきれいだと目を留めてくださったのは、今日がはじめてでした。 私は、それを待っていたのかもしれません」
 彼女は、相変わらず涼やかな微笑をたたえている。
「5年前の夏、私が秘書室に配属されてほどなく、半導体部品の下請けメーカーとの交渉で長野県の松本にごいっしょしたことがあります。車の中で、社長は眠っておいででした。
高速道路から降り、県道を走っていたとき、ふと目を覚まされ、「あの花は何という花だ」と突然お尋ねになられました」
「……覚えていないな」
「私はそのときまだ、社長のことをよく存じ上げませんでした。先代社長の急死で、わずか25歳で2000人の社員を肩に担う重圧に耐えていらしたことも知らず、ただ感情のない、冷たい方だという怒りに囚われていました。だから、そのときはじめて、人間らしい表情をお見せになった社長の横顔を見て、私はびっくりしたのです」

次へ 前へ TOP