あなたの瞳の殺意(7)

 私は1年かけて、夫の酒量を少しずつ、目に見えぬ程度に増やしていった。
 そして、あの夜。
 私は夫に、ほんの少し許容量を超えた酒を飲ませたことを見計らい、夫に乗馬の話題をさりげなく持ちかけた。フォーグル号の毛並みがよく、とてもよい仕上がりになっていること。倉木が絶妙の調整をしてきたこと。
 夫は私の巧みなことばに矢も盾もたまらなくなって、ほろ酔い気分も手伝って、愛馬の仕上がり具合を試してみたいと言い出した。
 私と倉木は、使用人たちの前で必死で止めるふりをした。
 しかし意固地になった深津の剣幕に逆らえるはずもなく、倉木は諦めたふりをして、自分で鞍を置き、手綱を引いてきた。
 そして、フォーグル号の黒光りのする尻をいたわるようにポンと叩いた。
 それが合図であることを、私以外の誰も見抜けなかった。
 夫は、私邸の庭を軽く一周するだけのつもりだったに違いない。
 しかし、馬は柵を高々と飛び越え、海に面する切り立った崖に沿って全速力で走り始めた。
 かげろうのごとく揺れる月明かりの中、愛馬のたてがみに必死でしがみつく男を背に、フォーグル号は嬉々として駆け抜け、そして虚空を跳躍したに違いない。
 半分失神していた深津がバランスを崩して、声もなくまっさかさまに、波さかまく荒れた海に落ちていった光景が脳裡に浮かぶ。
 忠実な名馬は、極度のパニックゆえに手綱を扱えない乗り手の意志を無視して、まことの主人に教え込まれたとおりのコースを走って、ほどなく戻ってきたのだ。

 私たちは今も、そっと視線を交わす。
 彼の私だけに向けられる優しいまなざしが、私のからだを熱く焦がす。
 互いの瞳の中に映る共犯者。
 あと何ヶ月かの辛抱だ。警察の関心がこの奇妙な変死事件から失われる時が来たら、そのとき彼と私は手を取り合って、誰にも知られず遠い地に旅立つだろう。
 待つことに私たちふたりは慣れている。
 そして、秘書である倉木と妻である私以外は知るはずのない事実が闇から闇に葬られるまで待つことは、今までの苦しみにくらべれば、なんとたやすいことだろう。

 深津は極度の高所恐怖症だったのだ。


(終)

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