楽しいわが家(1)

「あら、卵を切らしてるわ」
 有美は、冷蔵庫を覗き込みながら、ひとりつぶやいた。
 冷やご飯がたくさんあるから、オムライスにしようと思っていたのに。
 まあ、いいわ。カレーピラフにメニュー変更。ツナ缶でサラダを作って、あとの一 品は冷凍庫に入っていた春巻きをトースターで焼けばいい。
 野菜を刻んで下準備を終えると、彼女はインスタントコーヒーをマグカップに入れ てポットの湯を注いだ。立ち昇る湯気とともに心の落ち着く香りがして、ほっと吐息 がもれる。
 ダイニングテーブルの前に腰かけて、部屋の中を見渡した。朝刊がソファの上にぽ んと置かれ、朝のあわただしさがかすかに残っているものの、窓の多い広いリビング は清潔で開放的で、まぶしいほどの午後の光があふれていた。
 こんな家に住むのが、有美の長い間の夢だった。
 2階から、どどどっと子どもたちが駆け下りてくるのが聞こえた。4歳の実葉(み は)と2歳の龍太(りゅうた)が笑みを顔いっぱいに広げて、有美のもとにむしゃぶ りついてくる。
「ママーッ」
「ベッドでトランポリンごっこ、楽しかった?」
「うん。龍太と、まくらポンポンも、いっぱいしたよ」
「そう、よかったねぇ」
 ふたりをぎゅっと抱きしめると、
「今度は何して遊ぶの?」
「おえかき、する!」
「じゃあ、リュックの中からクレヨン出して。そこの床の上なら、お尻つめたくない でしょ」
 ふたりは南の窓際の床に腹ばいになって、画用紙に絵を描きはじめた。
 有美は夢中になっているふたりから離れて、マグカップを手に東側の窓に近寄っ た。掃き出し窓からはウッドデッキに出られるようになっていて、手すりに吊り下げ られたプランターにはマリーゴールドやペチュニアなど、丹精込めた色とりどりの 花々が咲き乱れている。
 こんな庭を持つのも夢だった。
 郊外の中古マンションに引っ越したのは、龍太がお腹にできた3年前。
 子どもの足音ひとつにも、階下から苦情を言われないかとびくびくしていた。散ら かり放題の狭い2LDK。いつも家事と子どもの世話に追われて、気が休まることが なかった。
 おまけに夫は手伝ってくれるどころか、都心までの片道1時間半の通勤に疲れ果 て、家に寝に帰るだけの毎日。
 孤立無援の有美は、ノイローゼ一歩手前まで追い詰められた。子どもを怒鳴って叩 いて、そのたびに落ち込んで食事さえ満足に作れなくなったあの頃は、思い出そうと してもぼんやりと霞み、まるで遠い幻のようだ。

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